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2004.05.02

どんな死に方も苦しいと言うのなら

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私の母方の祖母が無くなった瞬間、私は500キロ以上離れた場所で、彼女の気配を感じた体験がある。

私の場合は、匂いだった。
懐かしい、田舎の匂い。祖母の香り。

そしてその時同時に、姉も急に「胸騒ぎがする」とわめきながら、私のいた居間に飛び込んで来た。翌朝、亡くなった連絡を受けた時に臨終の時間を聞いて、納得したのを覚えている。

祖母は、長く意識を失い、点滴だけで命を数カ月繋いでいた状態だった。84歳だったから、往生したと言うべきだろう。

しかし、その今際の際の話を聞いて、私は愕然とした。
体は、最後の最後まで、生きようとしていた。最後に激しい痙攣を起こし、周りにいた彼女の娘たちが、その体を飛び跳ねないように、押さえたというのだ。

私はそれを聞いて、眠るように死ぬなどということは、実は全く希有な例なのだ、と思った。

死ぬ、ということは、本当に苦しいことなのだ。


以前、何らかの時に、私は変成意識の中で泣きながら、苦しい、もう楽になりたいとわめいていた時がある。
確かに、自分の生から手を放し、大いなるものと同化してしまえば、体を持つ苦しみからは解放されるだろう。

しかし、生まれた時と同じくらい、死ぬ時もまた、壮絶な体験なのだろう。

どんな死に方をするにせよ、地獄の中を通過するのが、この世に生まれて来た者たちに架せられた試練だというのなら、それはやはり、仕方が無いことなのだろう。

そして、どうせ死ぬのなら、その瞬間に後悔しないように、精一杯長くて短い「生」を生きるしかないのかも知れない。


ああ、それにしても、どうして私達は体をもってこの世界に生まれて来たのか。
地獄の中に突き落とされて、他の生命を奪い、業を身にまといながら、闘い生きていかなければならないのか。

最近、そんなことばかり考えている。
でも、答はもう、とっくの昔に分かっている。

私は、この世界を愛している。
苦しみの中、闇の中だからこそ、小さな幸せ、暖かい光がなんと貴重なことか。
それを教えてくれる、哀しくも美しい世界を愛しているのだろう。

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