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2005.03.09

かけがえのないもの

私たちの世代の最も深刻な問題点は、人やものを管理できる、いや、管理しなくてはならないという強制的な思い込みなのだと思う。

私も例に漏れずその世代の一人だった。自分のことはもちろん、自分の周りの全てを管理しないと納得できなかった。

昔、可愛がっていたオカメインコの「まる」。2羽のオカメを失った後に、ベストな季節を待ってついに手に入れたヒナだけに、もう喜びも愛情もひとしおだった。ヒナの時から体重を計り、その上下に一喜一憂し、栄養ある挿し餌を研究して与え、温度もサーモスタットを使用して完全に管理していた。

しかし、そのまるも今はいない。

私が関東に来て1年ほどたったある朝、カゴの中で羽と血をまき散らして絶命していた。私はその悲報を遠く離れた横浜で聞いた。

まるは、私より母になついていた。もちろん母はまるの面倒をしっかり見ていた。しかし悲劇は起こった。。

未だに原因は分らない。しかし、どうやらストレスから羽をむしっていた時、出血が酷くそれを見てショック死したのではないかと今は思っている。

これほどまでに完璧に管理していたのに、どうしてまるは死ななくてはならなかったのか。

今にして思えば、完全な管理こそが、まるのストレスだったのではないのか。

私はまるのために、まるへの愛ゆえにと思って体重を計っていた。しかしその話をある人にした時、その異様性を指摘された。

鳥がじっと体重を計るのを喜ぶ訳はないのではないのか、と。

そして、何故 そんなにグラム単位で管理しようとするのだと。

私はそれを聞いて最初きょとんとしていた。鳥にとって体重の上下は生死を左右する。食べないことは即死亡に繋がる。そう思っていたからこそ、きちんと食事をしているかどうか、私たちは毎日は計っていたのだ。

しかし、今となれば、その異常さは良く分る。

まるは、完全な過保護の中、いつしか鳥としての本能ず押しつぶされるイライラから、羽をひくようになってしまったのではないのだろうか。

乙女座冥王星は自分の全てを管理しようとする。予測不可能なものを認めず、全てを認識した上でコントロールしようとするのだ。

あたかも生物を機械か無機質のように扱うのだ。

しかし、それが物質や無機質なものならともかく、生物、有機物の全てを管理できる訳が無い。いや、物言わぬ物質・無機質なものですら、時には予測不可能な出来事があり得る。その時に慌ててそれをないものにするのが乙女座冥王星だとすると、今、射手座冥王星が突き付けているのは、それに対してのぜい弱さだろう。

管理することが目的になっている私たちは、何故管理するのかという「何故」の部分が抜け落ちている。その何故の部分に、本当に相手への愛が充当するならば、予測不可能なことや、相手の意志への尊重、自由を認める寛容さが必要になってくるのではないのだろうか。

心や意志は、コントロールできない。理屈が必要だけど、それだけでもだめ。何度も失敗し、何度も挑戦しながら、相手をねじ伏せるのではなく、相手を受け入れる努力が、私たちは他の世代以上に必要になってくるし、意識化する必要があるのだと思う。

先日、テレビで開発中のアンドロイドが映っていた。機械にも石にも命はあると私は思うが、それはもっと深遠なるものだと思う。有機質である人間や生命を受け入れることが出来ないものが、その愛に気付くことが本当にできるのか?と私は思う。

私たちはピノキオを目指して生まれて来たのだろう。しかしピノキオが勇気をもって闘い人間になれたように、私たちは人にならなくてはならない。人としての自分を認めなくてはならないのではないかと本当に思う。

せっかくかけがえのない「生命」をもってこの地球に生まれてきたのだから。

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2005.03.02

無為自然

以前、山梨の水晶山に昇り、水晶を拾いにいったことがあります。

ここしばらく続いていたトレジャーストーン・ブームに乗って、水晶山の「ズリ」は、水晶を拾いに来る人で賑わっていました。

ズリとは、以前鉱山として採掘した山の砂を放置したもので、かなり足場の悪い急斜面を、貼り付くように移動して、必死で1センチにも満たない、でも美しい水晶を拾っていました。

夢中になって拾いながら、でも、剥き出しになった山肌を見ていると複雑な気分になってきました。取りに来る人もマナーが悪く、山があれると持ち主の方も怒っていました。このままだと、立ち入り禁止になってしまうかも知れません。

何人かで来ていたのですが、お昼になり御飯を一緒に食べていると、ふと、足元のキラキラした石の固まりを見つけました。

子供の頭ぐらいの大きさのそれは、小さな水晶がびっしりとついていました。おそらくもっと沢山の水晶がついていたのでしょうが、取りに来た人が叩いて取ったか、または急斜面を転がり落ちてきた時に、もげてしまっていたのか、大きなものはすっかり落ちていました。

でも何だか私はそれに愛着が湧いてきました。

時間になり、さあ帰るかという段になって、私はさっきの石をどうしようかと悩んでいました。男性がそれをもって、割ってみようとしましたが、何度落しても割れません。私はあまりにも可哀想になって、やめてくれと頼みました。そのまま持って帰ります、と。

この日、私は後で電車で一人で移動するため、5キロほどあるソレを持って帰ると言った時は、メンバーの皆は笑いました。でも私はそれにめげずに新聞にくるみリュックにつめ、背負ってえっちらおっちら、持って帰りました。

その時、蝶がひらひらと私の周りを舞ったことを憶えています。その時、私は、この石は山からの贈り物だと確信しました。

山をおりる時、電車で移動する時、それはまるでこなきじじいのように、ずんずん重さを増し、何度も放り投げようかとも思いましたが、それでも私はちゃんと持って帰りました。

猪の頭に見えるその荒々しい石は、今も私の部屋に鎮座していて、部屋の外にその厳つい顔を向け、邪悪なるものを退けています。

今日も、どうも自分の境界が甘かったようで、何かついて?きてしまったらしく、部屋に戻ったあと、物凄い勢いで足がつってねじれ、痛くて悲鳴を上げていた時、石は足の裏を乗せろと言ってくれました。

すると、どうでしょう、痛みが一気に引きました。そして、体に貼り付いた何かを、引き剥がしてくれました。

持って帰ってから、ずっとこの部屋で私を守護してくれているこの亥の頭くん。罰当たりなことに、私は彼に何もかまっていなかったのですが、確かに彼は、あの日以来、私をずっと守護してくれていたのだと、改めて認識しました。

本当はこの石は山梨の山の中で、自然の中でただ石として存在していたものを、この東京の部屋まで持って来てしまいました。
それは私のエゴです。間違い無く。

石はただの石で、誰のものでもない。私が死んだ後も、この石は石として存在するのでしょう。その時この石は、また山に戻るのかも知れません。

ただ、人間のエゴであったとしても、こうやって出会ったことは、必然じゃないのかな、という甘いことも私は考えるのです。

人間の価値観など、お構いなしのところで存在する石を見ていると、人間が選んだのではなく、石が選ぶという事は本当じゃ無いのかなあ、と私は思うのです。

無為自然、ただ、あるがままに。


ありがとう、亥の頭くん。

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